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あの人からはどうして「学べる気がしない」のか?「誰から学ぶか」から「誰からでも学ぶ」へ

いつも楽しみに読ませてもらっているブログ記事。

あの人からは、どうしても「学べる気がしない」、たったひとつの理由:「何を学ぶか」から「誰から学ぶか」へ
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/9898

その教えてくれる人のあり方しだいで、その話を聞きたいとか、聞きたくないとかそこで評価されてしまう。まさに、そうだなぁと思います。

いやな奴だと、そこでカチッとスイッチオフ!問題な〜し!

となりがち。一方、実際に働いているとそんなにいやな人はいないし、いいとこもあるし、もちろんいやなとこもあるのが人間です。

そこで、その人から学びたい人と学びたくない人の「間」にある「それほどいやな人でない人(この言い方が正しいのかはわかりませんが)」たちからも学んでいけるためには、一体何が影響しているのか、ブログ読んで満足!と思考停止しないで考えてみたくなりました。

どうして学びって、教わる人のあり方に大きく左右されてしまう自分がいるのか?このへんは紹介されている本を読んで深めたいところですが、今は手元にありません。なので、手元にある頭をねりねり、自分自身に矢印を向けて考えてみると…。

「イガせんからもう学びたいくない!」
「イガせんはあり方がけっこう悪いやつだからもうこいつからは学ぶのはやめる」

とボイコットされたとします。大ピンチです。教師としての自分、教え手としての資質そのものが疑われてしまいかねません。それはいや!

それでも、こういうことは何かの手違いであったとしても、十分おこりうることでしょう。こうフィードバックされたとき、自分はどう受け止めるかが問題となってきます。

教員経験が増すにつれ、保護者からもびっくりするような感想をもらうことはときにあります。または同僚との意見の対立などは目指すものがあれば対立は避けられません。やんわりと伝え方だけでは解決せず、その人のあり方も総合的に影響してきます。

そんな「相手が尊敬マックスな人でない!」時どう受け止めて、対応していく自分がいるのか?

1 それを受け入れてつながりながら改善していく
2 そのままなかったこととしてやり過ごす
3 反発して相手を徹底的にやっつけようと攻撃する 
4 自分のせいにしてふつふつと鬱傾向になってしまう

意識的にしても無意識的にしても、どの選択にも、主体は自分にあります。

今の自分には相手が「何を言っているか」よりも「だれが言っているのかの」ほうが影響が大きいと思います。でも、それじゃいけないんんです。

自分の一番柔らかいところを突かれてしまうときがあります。これこそ、そのフィードバックをふりかえらなくてはいけないときなのかもしれません。

でも、そういうときにかぎって、「あいつは嫌なやつ、いやなあり方だから」と相手のせいにして、人にかぶせて、内実から目を背けようとしてしまう。

それをしまうときが確かにあるなぁ…。反省。

きっとそこには物事をみる自分の見方そのものに歪みがあるんだと思う。健全な自己評価が低い自分がいるんでしょう。
見下してしまった自分は、自分よりも劣っている(とゆがんで判断した)人からのフィードバックを受け入れにくくなってしまいます。そこに成長の種があるかもしれないのに。


これは教師としては致命的です。

おし進めてみると、自分よりも未成熟な子どもからのフィードバックは、「自分よりも劣っているものの意見はきかぬのだ」と耳をすりぬけてしまうからです。

それでは、教師としてフィードバックのもつほんとうの効果を発揮できません。フィードバックは教師が与えるものではなく、教師がなにがしかの指導をし、学習者が示した反応したそのものがフィードバックだからです。

自己探求をはじめ、「どうしてあの人の話はききたがらない自分がいるんだろう?もしかして、あの人がいっているからではなく、本当にイタイ真実をついているからなのかも!?」と、自分に矢印を向けない限りは本当の意味で他者からのフィードバックを受け入れ、いかすことは難しい。

全部はうけとめきれないけれど、そういう繊細さと健全な鈍感さを併せ持つことができるといいな。

自分のものの味方に気づいて、自信を日々メンテナンスしていくこと、大切だな。そう感じさせてくれる記事でした。
あ〜、おもしろかった。

自己評価に関しては、この本が参考になりました。


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