「状況に埋め込まれた学習」学級経営の意味って

 

いよいよ10月が近づいてくる。子どもたちの成長の姿が見られてくる時期。それだけに、ここまで向き合ってきた学級づくりの大切さをじわじわと感じている。

オイラは初任校のときは、学級経営にほぼ10割!という熱の入れようだったなぁ。というか、それしかできなかったよね。そんなでも、教科書があるから、それでもなんとかやれちゃうのが日本の教育のすごいところ…。いろいろ功罪はあるけれどさ。

最近のオイラは、学級経営3割、教科経営7割ぐらいかな。授業そのもので、クラス集団を育てていくってことができるようになってきて、教科を離れて、学級づくりのためだけに授業をすることは少くなってきた。でもそれだと、ちょっとツマラナイ笑。今は、学級経営:教科経営が4対6ぐらいがちょうどいいんじゃないかなっておもえるようになってきた。というか、学習効果をあげるには、やっぱり学級づくりが切っても切れないな、と今のクラスをみていて思う。

現在、教室のこどもたちは、学習指導要領にそって、各教科など教えられているし、実際、オイラもせっせと教えている。でもそれは、教え手としてのこちら側の都合であって、学習者としての子どもたちはどう思っているのかは、切り離されてしまってる。先日、「数学者の時間(算数ワークショップ)」で問題づくりをしていると、子どもから「問題ってなんかもらうもんだと思ってた。自分で問題見つけるってなんかへん」って苦笑。まさに、子どもたちにとっては、問題降臨してくるのが日常だよね。

教師の教科の専門性が高まるに連れ、より複雑なことを知り、わかりやすく教えてくれるようになってくるはず。そして、それは、一般的に「よい先生」と呼ばれる。でも、実際、詳しく研究すればするほど、より複雑で高度なことを要求するようになってしまう失敗をしてしまう。オイラはその傾向が強い…。学習者にとっては、よい教科への洞察、深い理解がそのまま、「よい学習」とはイコールとはいえていないなぁ。

では、学び手としての学習ってどうなんだろう?

昨日、オーコーチ君が教えてくれたんだけど、算数がニガテなある男子が、ノートにまちがった解き方をまとめてうんうんもがいてたみたい。それに気づいた、さらにニガテな算数男子が、そのまちがいによりそいながら、つまり、その誤答方法を使って、彼に説明しているシーンがあったって、教えてくれた。「う~ん」ってもがいていたりする場面って、そっと支えてくれる仲間がいるだけで、学習って、なんとかすすんでいくことができる。

学び手の立場で、教科内容や学習内容をみてみると、教えることが先にあるんじゃなくて、学びたい!いっしょにやりたい!っておもう学習者がいるかこそ、学習が生まれ、はじめて、先生が教えることが可能なんだろう。

オイラが英語が好きになったのは、中学校のときの英語の先生が美人でプリンプリンだったから。そんなもんです。男子なんて笑。でもね、学習の文脈を作るには、先生と生徒だけのつなぎでは、心もとない。できれば、より身近な友だち同士のつながりや、クラスのメンバーとつながれるほうが、より強固になるよね。

するってーと、つながりとか、関係性とか、学習コミュニティとか、そういう、チームづくりこそ、学びたい!って思える文脈をつくることが、教科学習を補完してくれるおおきな要素。つまり、学級経営ってこと。

んじゃ、オイラは学級経営で何しているかって。

プロジェクト・アドベンチャーやサークル対話、サークル係活動などを通して、子どもたち同士のあたらしいつながりや触れ合う場をたくさん意図的につくっている。子どもたちの言葉で言えば「学校が楽しい!」「休みたくない」っていってもらえる学習コミュニティがあること。話はずれるけど、これって大人でも一緒で「LAFTにいくと、なんか無駄話ばっかりなんだけど、学びがあるんだよなぁ」って。そう、一人で本を読んでいるだけでは、学びにくいんだよね。ブッククラブがあってはじめて、理解が深まることといっしょ。

教室のこと。今まで、自分から学ぼうとしてこなかった子がスイッチ入り始めるときってある。どこがきっかけなのかは、見えなかったけれど、きっと、安心ゾーンが学級の中に生まれ、ようやく基地となった。楽しい経験とか、なかよしの友だちができたとか、はじめて女子と話をしたとか。そんな小さなことでいいんだよね。でも、その小さな楽しい体験の膨大な積み重ねこそが、学級のベースになっていくんだろうね。そして、きっかけというきっかけはないんだけれど、いつのまにか、ついつい学習に参加してしまう、巻き込まれちゃうってことなんだよね。

ここ数年、「教科そのもので勝負るー!」みたいな気概があったけど、クラスづくりをもう一度ていねいにしていこうって思う。あ、それって、学習内容そのものを疎かにするって意味じゃなくてね。もちろん、学力は大事なことだし、そもそもの学校存在意義にかかわるし。でもね、ちょっと息苦しかったんだよね。若いときの学校そのものが、全力で楽しいってあのとき。あの大事な感覚をどこか、押し殺そうとしたりして。俯瞰してみると、ぐぐっと教科にのめり込みすぎていたんだろうね。きっと、教科の専門性を高めることで、クラスづくりをしていくことが上手な人もいるし、たぶん、それが王道じゃないかな。でも、オイラには、ちょっと荷が重い。ちょっと、クラスが楽しい体験を、教科の文脈だけではないところで、人とつながる体験もいいって思ってるんだろうね。

オーコーチ君が言ってた。「先生との思い出は、屋上で、スイカ割りをして見つかったことです。屋上で、昼寝をしたことです。屋上で梅干しの種飛ばし選手権をしたことです。ぼくは教師を目指します」楽しかったんだよね。キャンプソングが好きになって授業が好きになるってのもありだし。いろんな楽しさを教室にはおいておきたいぞ。

学校ってみんなで学ぶこと、そしてそれが楽しさだったりする。その学級をもう一度、見直してみたいなと思った。今はもう、オイラは、学級だけでなく、学年、学校ってところに差しかかっている。このクラスづくりの価値を研修でも体験してもらったりしているところ。

10月になって、学級コミュニティができはじめてくれば、いつでも助けてもらえるって安心感からこそ、一人になれる。個別で自分の課題にも向き合えるようになってくるはず。でも、それって、すごく時間がかかることだし、全員が一斉にそうなることじゃない。お互いに影響し合いながら、すすんだり、とまったり、もどったり、でもちょっと進んだり。そうやりながら、自分の力ものばしながら、学級コミュニティの文化そのものも、自分の手で変えていく担い手になっていくだろうね。そのときに生まれる、対立や葛藤や失敗も、大きな成長のリソースとなる。(あぁ、職員室もそうでありたいし、それに向き合っていきたい)

じゃ、PAやったり、サークル対話して、ビーイングつくってワークショップすれば、学級コミュニティってつくれるんだ!ってのは、ちょっとちがう。なんだろうね。そこには、育ってほしい願いというか、思いがあるから。そこが感染動機になり、憧れに憧れるように、影響し合いながらできてくるのかも。あり方こそが肝だ!とは決していえない。やり方としての実践力がなければ、絵に描いた餅だし。でもやっぱ、どんな教育、どんな先生、どんな学校、どんな子に育ってほしいか、そしてどんな自分でありたいか。あり方も向き合っていかなければ、仏作って魂込め図だよね。だから両方大事。教師としてのあり方もやり方も、両方を意識してどちらも、日々ふりかえりつず、磨いてくことが必要なんだろうね。それがぶれてたり、まちがっていたりすると、子どもの反応で返ってくるからねぇ。

こういったことが花開くのは、時間がかかる。いろんなものがからみあって、ようやくポンッ!ってでてきたのが、昨日のお弁当の多様だけれど安心感のあるシーンだったんじゃないかな。たぶんね、オイラのアプローチはひとつじゃないだろうね。どれもこれもひっくるめての「インクルーシブ・アプローチ」なんだろうね。自分で書いててなんかかっこいいぞ笑。ま、平たく言うと「八百万福袋殺法」ってところですな。子どもたちの多様さに対応するように、多様なアプローチがあって。でも、なんか大きな軸はずれないで。だからこそ、なんとなく同じベクトルへと向かっていってしまう。このへんは、また考えていきたいな。

もやもやしていたことが、少し言葉になったかな笑。こういうのって、「状況に埋め込まれた学習」「実践コミュニティ」のことなんだと思う。オイラは、不勉強なだけに、やってみて、あとから理論がついてくる。でもそれでいいじゃんっておもっちょる。平均値としての理論に収まらない子どもたちばっかりだしねぇ。目の前の子どもたちに寄り添いながら、無駄だなぁと思えることにも、じっくり付き合っていく。そういう時間も価値ある時間として受け止めて、いっしょに過ごしていこう。

いごこちのいい楽しいクラスって、きっと、よい学びをいざなう触媒「オリハルコン」のようなものなんだよ。

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