学びの遊び化プロジェクト 科学者の時間「風とゴム編」

 

オイラの科学者の時間「風とゴム編」をはじめました。ひょんなことから6月より理科を教えられることになりました。そこで、前任校で感覚とつかんだ科学者の時間のように、いっきに「遊び」から入ってみました。「遊び」が生み出す楽しさは活動をどんどん推し進めてくれます。子ども達は、いろんなものをつくっては、発表してみる。ただ遊ぶだけではなく、共有の時間を大切にしながらすすめています。

以前よりふつふつと考えていたことに「遊びを学びに持ち込めないか?」ということ。これまでのやや構成的な教科書ベースの学びの場に窮屈さを感じていました。かといって、任せっきりでもうまくいかない。遊びを起点として、その試行錯誤を学びに昇華することができるのかも?そう思えるようになり、科学者の時間としてあらためてはじめてみました。

最初のミニレッスンでは、風とゴムの車教材を配って、「とことん遊ぼう!遊んでみたことを教えてね」と。自学ノートにすでに、輪ゴムでっぽうを研究している子がいたので、それを例に「発明カード(自分の発見を紹介するカード)」の書き方を説明しました。最初なので、名前を書いたりと色々な時間もかかるので、2時間続きの理科としてみました。

子ども達のワークタイム(活動)をみてると、弓をつくっている子がいるんだけどぜんぜん飛ばないし、ゴムがきれてしまうので、うーん、とうなっている。どこからかホワイトボードや本をかき集めて気は、車のコースをつくってみたりする子も。帆も立てずに車を走らそうとせっせと送風機を回しまくっている子。風車をつくってみたり、みんな遊びに夢中でした。これ勉強している感じが驚くほどないんだけど、最初だけに、それでいいと思いました。ここから、いろんな法則が見つかっていくことなんでしょう。

しばらくすると、勝手に友だちとつながって、でかいトラックを作り始める子も。遊びは協同を引き出しますね。遊んでいて勝手につながっていってしまう。けれども、よくみていると、入れてもらえないのもあり、けっこう社会性を学習する場にもなっていたりしてる。

 

全体的にみんな鼻息荒くせっせと遊んでいるので、カンファランスにはいるのはこの時期はただのじゃまみたいで、気軽に「なにしてんの?」程度にとめておきました。

最後に、共有の時間。子ども達はせっせと発明カードを書いてもってきてくれましたが、全部の紹介はできないので、4つほど自分たちで紹介できました。科学者のイス(祖母の家からもらってきた踏み台)にちょこんと座って嬉しそうにみんなに自分の特別な発見を紹介してました。

すでに輪ゴムの数で強さに変化があることが見えている様子。それも、車を作って遊んでいるからその速さを競わせようとして、「より速く車を走らせるには?」と。その後は、休み時間にも勝手に遊び始めているのがいいなぁと思いました。「イガせん!車に羽つけたらがフワッととんだぜ!」って教えてくれました。

帰りがけ、自学ノートにワクワクメニューでやってくるって。オイラが「それってバッチリメニューのほうじゃないの?」ってきくと、「ええええ!?理科って勉強なの?遊びじゃん」だって。しめしめ。「明日、理科ないかな?理科ないかな~?」なんども尋ねくるので、「先生にも都合があるんだよ。来週だな」なんて、ちょっと意地悪も笑。本当に、楽しかったようで、三分の一の子がジャーナルにかいていました。

 

多くの子ども達は受動的な遊びに慣れてしまっています。そして、習い事ややるべき事におわれ遊び尽くす体験を失っているようにみえています。ゆったりとした時間軸の中で、やりたいことを没頭したり、くつろぎながら学んでいく学習環境をつくっていきたい。それが学びを遊び化する意味です。遊びには、道徳心を養う社会性や感性、問題解決する創造性や挑戦性といった体験が詰め込まれています。もちろん体力だって必要です。なによりも、自由意志から出発するので、心の満足感がはんぱないし。

遊んでいるとき、一番楽しいときにこそ、人はよく学んでいる。ならば、学びを遊びに変えていけばいいじゃないの。端から見れば遊んでいる様にみえることが実は深い学びの種だったりして。これが学びの遊び化プロジェクト。

今の学習はガイドラインやカリキュラムにちょっと縛られすぎているかな。そこをもうすこし距離をとってみることで、ゆるやかなカリキュラムデザインに遊びの要素を持ち込むことが可能だと思います。しかし、遊びをただもちこむだけだと、これまでの「意図的・計画的」な学習が予定通りにはいかなくなります。教師が意図していることとはまったく別のことや、一見ムダな活動となってしまう場面も増えてしまいます。しかし、その一見ムダに見える活動にこそ、実は意味があったりもします。帆を立てない車に風を懸命に風を送り続けている子や、飛ばない弓矢をつくっている子。そういうことにこそ、言葉になる以前の体験知の積み重ねがあるのかもしれません。

遊びが発動するときの、子ども達は楽しさのフロー状態にいます。少し難しい課題へと挑戦し、その活動には学習者の自由意志があり、操作している道具からの即時フィードバックがもらえるからです。これは一斉指導でだれもが同じタイミングで同じように学んでいく学び方では生まれにくいものです。

学びの遊び化プロジェクトには、

① 時間のゆとり。試行錯誤できるゆとりを確保し、

② 即時フィードバックをもらえる(羽をつけたらとんだ!といったように)実際に操作できる道具や教材が個々にあること、

③ 友だちとの協力することや、自分の発見を共有する場があること。

これらの要素を組み込みながら、進めていきけそうです。

きっと、このような遊びからの発見を、友だちと共有し、教師がうまくファシリテートできるのならば、その発見は広がっていきます。その広がりをそれぞれが検証して、体験知がたまってくれば、自然と物事の法則や秩序といった概念を獲得できるはずです。これは、ただ教科書を読んで理解するといった授業とは大きく意味が異なるはずです。

一方、学びを遊び化することでもしかしたら遊びを道具化してしまい、本来もっている遊びの本質を傷つけてしまわないか、矮小化してしまわないか、というあやうさもはらんでいるかもしれません。そういうことも含めて、今後、挑戦しつづけたいプロジェクトです。オイラにとってはこれは、教材研究という遊びなのかもしれません。

遊び化することで、楽しさを創り出す。楽しく学ぶとは、だれかの手のひらにのせられる操作的な学びではありません。お釈迦様の手のひらを飛び出していくような孫悟空でありたい。楽しさは自分で創り出し、さらには、一緒に試行錯誤している隣にいる友だちと一緒に作り出していくものだと思うからです。

オイラの予想ですが、この遊び化プロジェクトはワークショップ授業と相性がとてもいいのではないか、ということです。これを機に磨きがかかっていくといいなと思います。

興味ある方は一緒に研究しませんか?どんな教科でも可能でありそうです。

あ~、たのしかった!


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帆にするはずの厚紙がボディーに…。ま、いっか。

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理想にひっぱられると、あるがままの子どもがみえにくくなる

 

ここにきて子ども達の様子がぐっと落ち着きをみせ、相手を大切にして聴く、伝える、受け止める、という場面がふえてきて、ほっと一安心。振り返ってみると、ここまでちょっと二の足を踏んでいた感じがします。

たぶん、オイラの中にある「昨年度修了時の3年生」のイメージに引っ張られていたんだろうな、と思う。そうだよね。まだちょっと前まで2年生だった子たち相手に、いつのまにかこっちは勝手な期待値をもっていて、じっくりと待ててなかった。

もちろん、子どもたちに高い期待をもって臨むことは必須です。でも、そこに子ども達を強力にあてはめようとしてしまいがちに。そもそもそれが学校の機能ですが。教科書しかり、学習指導要領もしかり。

これにのっとていると教師はものすごーく安心しますが、そのぶん、そこをせっせとカバーすることで思考停止してしまうあやうさもありました。

これらにあてはめようとするのは、「この学年ではここまでできるのがアタリマエ思想」構造と同じように感じてしまいました。おしすすめれば1977年生まれは、今、どこまでできていると正解なのか?というついでにトンチンカンのような問いが生まれてしまいます。笑

教師自身が経験をつんでくるとそのぶん、「理想の3年生像」のようなものにしばられやすなってしまうのかもしれません。目の前の子どもたちに応じて!とは思うものの、やはり「口うるさいおこごとおじさん」になっていたのが、この1学期当初に少し時間がかかっているかもしれない。もちろんじっくりと時間をかけるのはいいけれども、一方的に持つ理想像は、成長の兆しのようなものがみえにくくしている装置になってしまっていたかな。

いかに、目の前の子どもそのものを、評価判断を脇に置いて、そのまま、あるがまま受け止めようとできるのだろうか。どうも、学校にはすることや教えることが多すぎます。社会化という目的にむけ、子どものもつ感性やその時代にしか味わえないなにかを削りながら教育しているのかもしれない。本当にそうすることがいいのだろうか。そこに疑いの目を向けられるようになってこられました。

カリキュラムデザイン、UbDといった逆さまデザイン、この辺のものも対立するのでしょうか。すぐれたカリキュラムがあることと、それを運用している教師のメンタリティとは異なりますが。よく指導案をすてて授業をするといった表現がされるけど、子どもにつきあっていくってそういうことなんでしょう。

自分のこだわりをおくこと。それは「コダワリなんて、んもうおいちゃう!」と決めることから始めてみると、あとは弾み車のように、子どもの姿に影響されながらもどんどん進んでいけるんだと思う。これまでワークショップ授業をやっているとそういう感覚によくなれていました。はやくワークショップ授業に没頭したいな。

んじゃ、子どもはあるがまま、ほったらかしでいいのか、自然のままでいいのか、というとそうではなくて。やはり、学校の中でしかできない目的があるはず。そういうものを教師、保護者、時代を鑑みてさぐっていかないと、知らず知らず忍び寄ってくる「理想の○○」に脳みそのっとられちゃう。

それは、日々、子ども達と接していると刺激と反応に埋没しながらやっているのでとても気付きにくい。ちょっとスピードを緩める意味でも、違和感を言葉にしようと文字にしてふりかえってみたり、なにか抵抗していかないと、「すっきり教師」となり、モーレツ邁進していってしまうんでしょう。

おー、怖い、怖い。

小難しいことを考えず、まずは、ひとりひとりと気軽なおしゃべりからはじめてみようと思いました。かかわり続けるからこそ、その子に大切なことや求めることが見えてくるんでしょう。

なにもないからこそ、純粋に子ども達と放課後や休み時間一緒に遊んでいたあの頃。そういうときこそ、感情的な満足感と癒やしがあり関係性が安定して、あの未熟な頃のオイラがやりきれたんでしょう。初任の頃のオイラに負けないように(今年度は初任者ですが)、相手の存在を、そのまま、あるがままをまるのみできる存在でありたいですな。

 

あ~、なんかスッキリした

プールの自由時間しない派だったオイラからみえてきた無意識のコダワリ

 

自分がこれまでもっていた思考のクセというのでしょうか、無意識のコダワリのようなものが顕在化した体験をしました。

今日は水泳指導3回目。ドル平(足はドルフィンで手は平泳ぎ)を主に教えていて、水泳の時間だけれどもなんだか、音が静かでヨガの時間のように子ども達とゆったりとリラックスするような時間が流れていました。

予定していた練習も終えたので、さて終わりにしよっかって、声をかけると、「自由!自由!自由!」と、自由をもとめて訴えている子ども達。小さな尾崎豊がたくさんいました。それに呼応するかのようになにか忘れていた心にしびれるものを感じました。かれらは決して自由を求めているわけではなく「プールでの自由時間」がほしいとのことです。

前回の水泳学習では、オイラがギックリバック(ぎっくり腰ともいふ)で、替わりの先生に替わってもらえました。そのときの自由時間が2回あったことを嬉しそうに振り返りに書いている子もいました。

オイラはこれまで学習指導要領にあわせて身につけてほしい水泳能力と、それにあわせて年間指導時数をわりだすと、いっさい自由時間をもうけることはできませんでした。そういうのは夏休みのプールだったり、低学年の水遊びまでとどこか割り切っていました。やっぱり、あの苦手な子ども達には少しでも泳げるようになってほしいという願いがありました。さらに正直言えば、「自由時間」という指導時間はありませんよね、というかんじ。

けれども、今日の水泳の時間にはあと5分だけれども自由時間をとれる時間がありました。むむむ。だったら、もう少し練習・指導したくなる自分の気持ちと、いやいや、やっぱり子ども達のそういう時間も大切にしないといけないなと、葛藤しているオイラがいました。

そういう自分に気付くと、「あれ、オイラ今、目の前の子どもたちを置き去りにして、教えるべきことを優先してるかも」って。教師がもっている教えるべき事、教科書に子ども達を当てはめるの、やっぱりへンだってこれまで言ってきていたのに、瞬時にそういう判断をしようとしている自分がいました。

あわわわわわ。

なにか大事なことを忘れていた。後で、職員室でそんなことを話していたら、「よかったじゃない。子ども達が泳げるようになる前にプールがキライにならないで」って、笑って話されました。ふむ。感情的なものを大切にしているつもりではいたものの、好きとか楽しいとか、置き忘れそうになってました。新しい職場に変わり、ある意味これまでの文化を相対的に観られる経験なのかもしれません。

これまで自分が大事だと握りしめていたことが、本当にそうなのかな?って少しずつ考えるスペースができる体験をしています。そうすると自分がこだわっていたものがするりと流れていってしまい、後ろにはオイラの抜け殻がたくさん。それは魅力でもあるけれども、そこに立っているオイラはなんになるんだろうな?という未知なる不安と興味があります。

でも、子ども達とその後、中休みまでも存分に水遊びをしました。ぶんぶんかれらをなげまわし、水にすべりこんで楽しかったなぁ。さすがにくたびれました。眠い。

あ~、楽しかった。

保護者との面談で気をつけたこと

 

この時期、例年では家庭訪問ですが、オイラの勤務校は保護者との面談です。ということで、今回、特技披露の子ども強み発見コースはなくなく封印しました。また様子をみながら、いろいろやっていけるといいなあと思う。

立て続きの面談。朝の職員室では「あ~、がんばんないとなー」って話したら、「私は今朝はハマショーを歌ってきた!」「俺はDVDとポスターが届いた」って職員室@朝ハマショートークイベントに、ベテラン2人と初任者のオイラで盛り上がるそんな職場。勢い余って、「青空の扉」を久々に聴きたくなり、買い直してしました。うーん、大学1年生の時を思い出す。このアルバムすきだなぁ。

保護者面談の時に、気をつけていること。プリントのはしっぽに小さくメモして書いておいて、途中途中チラ見しながら、気持ちをもって臨んでいます。

□1 共感し続けようと努め、感情的なところを大切にする。

この一点。自分の評価判断をできるだけ脇において、相手が感じていることを同じように聴こうとしてみる。できているとか、できていないというよりも、そういう態度でありつづけたいと思ってのこと。不思議と、面談を通して自分の受け止め方も変わってくるのを感じました。自分の正しさを通そうとする気持ちをすんでの所で抑えられ、相手のことを分かろうと粘り強くできるきっかけが生まれました。

□2 子どもの強みを教えてもらう。学校だけでは見せないところを。

これはもう少し事前に準備が必要だったと反省。その場での対話で思いついたことや印象で話し合いが進んでしまいがち。オイラは今年「成長アルバム」をいう、自分の成長を自己評価する凝集ポートフォリオをつくっています。それをもとに話し合えたので、学校での興味関心や自信につながることを子どもの姿で話し合えたのがよかったです。

□3 保護者の願いをきいて、家庭でも学校でもできることを一緒にさがしてみる。もちろん、失敗しながらも、変わろうと引きずりながら楽しみながら続けてみること。

結果、大人がカリカリしないで、今しかないこの子どもと関われる時間の幸せを満喫しよう!ということになりました。「失敗をしてもいい」ってどうしたら子どもによく伝わるだろう?って、話し合いにもなりました。それって、取り組みの努力やプロセスに目を向けて、次にできそうなことを一緒にさぐっていくことだよね、ってことになり、なんだかいい話だったな。

 

その後、職員室で一息ついてたときのこと。「教師は伝えるんじゃなくて、相手から聞き出す事よ」って本校のおばあちゃんカウンセラーのことを教えてもらいました。カウンセリングマインドの神髄です。自分で気付かないこと限り変われませんなぁ。

面談をおえてみると保護者との「つながり」はやっぱり大切だと思う。1回だけではなく、細々とつながって、話し合い、一緒にかわっていったり、成長していって、子ども達に返せていけるといいなと思う。そういう意味では、オープンに、色んなことを耳の痛いことも率直に言ってもらおうと努力できたことがよかったな。

教師って仕事は繊細でないとやれないけれど、繊細過ぎてもやれない。どこか純粋な鈍感さがないと、やっていけない。そんなこともぼーっと考えたりもしていました。

終わった気分よくて、京王線の階段を駆け上がり、、新宿のラッシュアワーの交差点の中をちょっと笑いながらわたりました。ビルの合間の青空がどこかへ続く扉みたいだったな。

なんか達成感。さて、筋トレして一杯飲みに行こう。

あ~、楽しかった。

子どもたちとつくる学級通信で大切にしている5つのこと



腰をぐきっとやっちまいました。いろいろ原因を考えてみると、「そうだ。ここんとこしばらくブログを書いてないからだ」と妙にすっきりつながって、細々と続けていこうと思いました。ということで、そう、今年オイラは3年生を担任しています。

これまでをふりかえってみると、オイラはあんまり通信を書き続ける教師ではありませんでした。書いた年でも100号を越えるぐらい。でも、100を越えたあたりで急にトーンダウンしてきて。それは、保護者に向けて自分のやっている教室での取り組みを説得するかのようなところがあったからだなぁと、今思うと層だったんだ思います。学校でなにか新しい実践をすると、指摘されないように、そのチャレンジを取り上げられてしまわないように、って不安の表れだったのかも知れない。

そこで、ちょっと、肩の力の抜いて、子どものそのままの姿によりそいながら、教室づくりと同じように子ども達の姿で学級通信をつくっていけたらいいなと思い、書き始めているところです。学級通信においても同じように「子ども達にオーナーシップ」が持てるようにできるといいです。そんな1年間の細々とした取り組みです。



□1 子どもの言葉でつくる


これは教師が理念や価値といった情報を一方的に伝えるというよりも、その伝えている価値が実際に子ども達にどう伝わっていて、どう行動を起こし、変わっていくのかを記述していけるといいなと思ったからです。鼻息荒い通信はもうさよならです。だから、ときに残念な話の時もあります。子どもの言葉は、ふりかえりジャーナルに書いてある子ども達の言葉を大切にしています。とはいうものの、オイラの想いが強いと、子どもの言葉のチョイスにも偏りが出てきてしまいます。そこへはぐっと自制して、子ども達からの掲載リクエストも熱いので、誰もがバランス良く載るように、名簿にカウントしています。

通信の今週の迷言には、「子どもの言葉」から使わせてもらっています。いいなぁと思います。今週は「自学ノートは楽しいでの、何年でも書き続けられそうです」です。これいいよなぁ。文章には、ようしゃなく漢字を使って書いています。今はオイラが書いていますが、ゆくゆくは子ども達に書いてもらいたし、そういう通信もなにかおもしろいなと。新聞サークルの子ども達たちもせっせと書いてくれるので、通信の裏に印刷して配っています。


□2 子ども達に向けに書く

やはり届いてほしいのは、子ども達の心へ。自分たちがやっていることを一歩外から価値づけられる体験、客観視するチャンネルにこの通信がなってほしいなと思います。だから、配ったら、ファイルにとじて読み聞かせをしています。中には線を引いてくれる子もでてきました。


□3 時間をかけすぎずA4表一枚に収まる文量だけに

分量が多すぎても少なすぎても、書き手も読み手もしんどいもの。短くまとめるのも教師の技術だなとおもえてきました。多くなるときは何回かに分けて発行することにしています。30分以内で書けるものだけにしています。


□4 読者である子ども・保護者からもメッセージをもらい掲載を

学級通信はついつい配り手の一方通行になってしまいがち。読み手である子ども達からの感想や保護者からのメッセージも2週に1回ごとにもらって掲載しています。相互のやりとりは教室のあり方と同じように、通信でも同じようにつくっていけるといいなと思います。


□5 書くことを見つけて、楽しんでいること

そんなこんなで、28号までつくれました。この一ヶ月で毎日1枚ずつ?それ以上、出せているかな。ぎっくり腰の時など、気に病まないで「書かないということも選択肢」もとっておきたい。ブログもいいけれども、こういう教室実践を子どもベースの学級通信で記述していくのは、教室から見える風景が変わってくる予感もしています。

また、通信のように一つアウトプットするツールがあることで、そこに引っかかれるように自分の実践をメタで見られる機会が増えてくるのかもしれません。この調子で続けていけるといいなと思います。今しか出会えない気持ちを大切にしていけるといいな。驚くことに、オイラの学校の先生達は、ほとんどの方が出している。専科の先生の通信は専門的でもあり、オイラが見えていない子どもの姿もあり新鮮です。

あ~、楽しかった。



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そうそう。3年の総合で土の研究をはじめました。土に落ちていく花びらが腐るのに、塩漬けだと腐らないんだって。って、それをつまみ食いしにくる少年・少女がたくさんいるので、こういうおふれを出しました。懲りずになめてるけど笑。


校長先生から本をもらいました。子どもの姿がいきいきと描き出されている本です。こんな赤裸々な文章ものせちゃうの!?と、おどろき。こんな姿を学級通信を通して、子ども達、保護者、先生達と共有していけるといいなと思っています。自分の気持ちへや子ども達の気持ちに寄り添っていけるような文章の数々。通信を書いている先生ならぜひ手にとってほしい1冊です。





晋さんよりいただいた本。この本にはずいぶん助けられています。上記したような「週の名言」「ファイルにして閉じる」「読み聞かせる」「線を引く」など、通信を出し続けるコツがいくつも。自分なりにアレンジしてつかわせてもらっています。こういう本にふれると、通信を書く弾み車になっているなぁと。ぜひ。

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