通知票に代わる自分モノサシづくり「成長アルバム」でポートフォリオ評価

 

1学期がおわりました。例年だと「オイラに人を評価する資格があるのだろうか?」という実存的問題に突きつけられている頃。けれども、今年はどうもすっきりしているような、しないような微妙な気分です。オイラがいる学校は通知票がありません。通知票を書いていないので、どうも学期末感を味わえない?という不思議な感覚です。

そもそもこれまでの学校での数年は、所見にしても成績にしても1日~2日もあれば終わってました。PCの導入は、これまで記録していた個人カンファランスのメモを引っ張り出し、ペーストするにはもってこいでした。それでも、頭の隅に「何か常に追われている仕事の一つ」として通知票がありました。けど、それはオイラの問題であって、通知票で評価される子どもにとっては、どうなんだろう?と。

「よくできたが10こあったら100円もらえる!」「がんばろうがなければ、ゲーム買ってもらえる」という本音がちらほらとよく聞こえてきてたので、「なら50円くれたらぜんぶよくできたあげる取引しない?」と聞くと、「イガせん、それじゃぁ通知表(あゆみ)の意味がないんだよ」と、たしなめられてました。苦笑。

子どもにとっては、ホントにどんな意味があるんでしょうね。本当にがんばったことへの納得感があるのでしょうか。その評価の基準でさえも、学年でそろえてはいるものの、点数で切ったり、その先生のさじ加減といったところでしょうか。なかには、興味関心を挙手やノートの提出でとっている先生もいたり。「興味関心って、そうじゃないのになー」って、聞いてて思っていました。

そんなこんなで、やっぱり通知表って人を評価するにふさわしいものではないとあきらめていました。せめて、子どもへのラブレターとしてよいメッセージをたくさん見つけて、返していました

では、本当にその人を評価するものってあるのかな?

そんなものはきっとなくて、評価ってそもそも、そういう人をランキングするようなもんじゃないはず。うまくいっていることやいっていないことを、観察して、何が足りないのかそのめあてと現状とのギャップをうめるための具体的にアドバイスしたり、気づけるような投げかけをしてみたり。そういった引きずり続け、評価し続けることこそが本当に必要であって。テストでできないから、「はい、お~しまい。次の単元がんばってねー」という終末評価ではない。関わり続けながら、支援し続けながら、見とどけながらやっていくのが形成的評価。そこがやっぱり大事です。だから、通知表ではもう手遅れなんです。そこに行き着くまでに、サポートするためのものが評価だと。

けど、それもここ数年ちょっとかわってきて。最終的には、そういう教師のサポートを受けながらも、少しずつ自分のモノサシをつくっていけること。自己評価できる子になってほしい。これって教育の最終目標の一つでしょ。だから、オイラは漢字テストでも単元テストでも、全てまず「自分でまるつけ」してからオイラに出してもらいながら○付けの練習もするし、振り返りを続ける中で、自分の気持ちや考えをキャッチできるようになって、次に活かしてほしい。そういう日々の取り組みで自分のものさしを磨いていってほしい。けれども、そういうモノサシは子ども自身はよくわかりにくい。そこで、以前、オランダイエナプラン校でみた凝集ポートフォリオを今学期から取り組んでみました。2年ほど前から、けんじくんとあおちゃんとほそぼそとはじめていましたが、オイラがふりきれたのは今年から。

自分が頑張ったことや努力し続けたこと、成長したことや大好きなこと、嬉し楽しかったこと。その1週間の中から、そういう一場面を「自分で選んで」40Pクリアフォルダにファイルしてきました。自分で選ぶからこそ、いろいろおもしろいことが挟まっています。

算数ノートの説明や問題づくり、漢字の小テスト、社会の探検地図、理科の発明したこと。読んだ本や1000分間読書マラソンシートなどなど。中には、友だちが増えたことや一輪車のこと。子どもが選ぶ一番多いものは、自学ノートやふりかえりジャーナル。そこには、やっぱり気づきや努力がつまっているんでしょうね。オイラの熱もあわせて。

B5プリントに、選んだ理由などを振り返るようのプリントと一緒にはさみます。プリントなどそのままファイルできるものは、そのままいれるのですが、それができないときは教室の隅にある「ブラザープリンタ(自腹)」で白黒コピーを自分でしてもらっています。帰りの会でファイルしてからさようなら、なのでじっくり考える子や、さっさとすませてすぐに放課後遊びに行くこと分かれています。なかなか決められない子ではさまない子もいました。今は、それでもいいと思います。続けていくうちに、少しずつ自分にとって本当にためておきたい宝物が見つかるはず。それは見つけようとしなければ、見つかりません。モノサシは磨こうとしなければみがけないから。

子ども達の傾向を見ていると、やっぱりオイラが真剣に取り組んできた授業がファイルされることが多いです。子どものモノサシ基準は先生の影響が大きくあるんでしょう。それを覆して、連続して「一輪車のできたわざシリーズ」をファイルし続ける子もいます。そういうのも好きです。オイラも授業で負けられないなと、おもっちゃうので笑。子どもって、学校って、オイラから見えている学習だけではないんですね。なにか楽しいことを、みえないところでいろいろやっていたり、見つけているようです。

さて、通知票がないかわりに、今学期末は自分で選ぶ凝集ポートフォリオ「成長アルバム」を抱えて帰りました。すでに今週頭に一度返しました。保護者からの温かくも、おもしろいコメントをもらっているようです。もちろん、毎週、オイラからのコメントもかかせません。「この夏、自分でもはさんでみるといいよ!」と渡してさようなら。

今後は、「成長アルバム」を選んでいるときに、おいらも一緒に相談できるといいなと思います。そして、続けてみていくうちに、1人1人のそのファイルがどう変わっていくのかが楽しみです。幼稚園でも取り組み始めたようなので、2学期にのぞきに行こうと思います。今後、評価についてちゃんと研究していこう!

あ~、楽しかった。

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ポートフォリオ ふりかえりシート

学びの遊び化プロジェクト 学び方って、じつは「いったりきたり思考」!?

 

「オイラの科学者の時間」を進めています。子どもたちが遊びなら学んでいる活動を横目でちらちらみていると、その学び方は従来の線型モデルではなく、ましてサイクルモデルでもなさそうだなと、最近、疑いをもって考えるようになってききました。

 

ある教科を通して学べること(それ算数でも理科でもいいのですが)に、教科の持つ本質、ここでは概念とでもいうのかな?があります。その概念(数学的思考や科学的思考など)を獲得していくためにも、やっぱり子ども達には潤沢な試行錯誤の時間が必要です。失敗したりうまくいったり繰り返しながら、遊びながらいろんな工夫や気づきがうまれてきます。その結果、学び方をも獲得しつつ、教科のもつ概念を理解していくんでしょう。

 

たとえば、現在、理科では「風とゴム」の単元で徹底して遊んだりものづくりをしています。子ども達は


Skitch

 

「風を活かしてパラシュートがつくれそう!3階からやってもいい?」

「うおおおおお!とんだとんだ!おもしれえ!」

「やってみたけど、今度はパラシュートを下から飛ばしたいんだけど、どうすればいい?」

「下から扇風機作戦だな。でも重いから重りをとってみようぜ」

(鼻息ふーふーと興奮気味)

 

こういう試行錯誤を繰り返しながら、風や空気のもつ性質を少しずつわかってくるんだと思います。

 

 

ただ、こういう学びを繰り返している限りでは、やっぱり「教材がもっている概念」を理解するにとどまってしまってます。残念。その教科学習を通して、身につけていってほしい「学び方」、これこそが学習分野を越えて(かっちょよくいえば学習の転移)使えるものとなる大事なことだと考えています。そういった、自分の学び方をどこか一歩高い位置で、または冷静にメタ認知していってほしいもの。そういうしかけを授業の中に設けないといけないなと思っているところです。

 

この学び方というと、算数ではこれまで「問題→計画→とく→まとめる→練習」といった線形のように直線的に学んでいく学習プロセスだと考えていました。問題解決学習がまさにそれです。「作家の時間」や「数学者の時間」といった本物のを体験するワークショップ授業を続けてくる中で、学び方とは直線ではなく、サイクルであることが少しずつ身にしみてきました。

 

このサイクルとは本物の数学者が使っているプロセスです。数学者の時間でいえば、つまり「問題→予想・計画→ふりかえる→共有→(問題にもどる)」といったものであり、この最後の→が大事で、いつまでも循環しながら学び続けることが数学的思考を伸ばしていく一助となるんだと。

 

このサイクルに絞って教えるからこそ、シンプルで使いやすい。子ども達はそれを自分の学習に使おうとします。

「今、自分はどの学習段階にいるのかな?」

「そうだ、今は予想しているところだ」とか。

これを子ども達は、「忘れ物をしたとき」とか、「友だちとのトラブル」といった場面にも応用しているようでした。

 

オイラはこれでいいと思っていました。教えることもサイクル一つ理解すれが、くるくるまわしていくことで、数学的思考が勝手に追いついてきてその反復連打がのちのちの数学的思考をサポートし続けてくると。

 

けれども、そうでありませんでした。理科の授業で遊びをベースに学習を続けていくうちに、どうも子ども達は、学習はサイクルで学んでいるような気がしないんです。そもそも、まだオイラは科学者の時間の学習サイクルを定義づけられていませんが

 

子ども達の学び方をのぞいてみると、「いったりきたり」して学んでいるんです。あえていうならば、「遊ぶ・つくる」⇔「学ぶ・発見する」⇔「共有する・改良する」といった三つの段階を行ったり来たりしているんです。もちろん、「共有する・改良する」から「遊ぶ・つくる」へもいったりきたりしています。上のパラシュートのものづくりはまさにそれでした。彼らの頭の中には、一般的な科学的思考プロセスの「問題」→「予想解決の計画」→「観察・実験」→「結果の考察」といったプロセスを通して、類似点や相違点をみつけたり要因をみつける力をのばすことなどではなくて。もっと、根源的に遊びながら学んでいるのって、学び方はリニア(線形)でも、サイクル(円形)でもなくて、いったりきたりでプロセスに方向はあんまりないんです。

 

この現象は、「数学者の時間」でも同じようにあって、「子ども達が数学者ノートを書かない問題」として頭を悩めてきました。数学者のサイクル(数学的思考)を今後、提案していきたいのですが、学習者がそのサイクルそのままをなぞっているわけではなくて、瞬時にひらめいたり、アイデアが降りてきたりしてどんどん作り替えていく、決してサイクルにあてはめてくれていない!?そういう子どもたちの学習プロセスをオイラは言語化できずにいました。

 

先日、数学者の時間の学習会で、「考えのスピードを落とすために記録していく」という意見が仲間からありました。ここでオイラは「ああ!合点!」と大きな気づきになりました。頭の中で「瞬時に」考えてしまうことを、ノートへ記録することで、その思考スピードをゆっくり落とすことになり、より自分の考え方や解き方を検証していけるということです。

 

これはいいなぁとおもって、その記述を読み返してみると、学び方は、やっぱり線形でもなく、サイクルではなくて、各要素の往還(問題⇔計画⇔とく⇔ふりかえり)だと疑いが深まってきました。これをサイクルといっていいのでしょうか。

 

リニアとかサイクルとか、往還とか、どれがより学習者の思考に近いんだろう?遊んだり楽しんで学んでいる子どもの様子を見ている限りでは、やっぱり「いったりきたり思考」かな、と思えるようになってきました。


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子どもが今作っている最中の「くるくるベロそうち」がそうです。いろいろ遊んでいる中で、ゴムの性質の気づきが生まれ、ゴムを巻くと動力となりものを動かすことができる、ならばお面をつけたら「あっかんべー」をするおもちゃがつくれるかもしれない!?と。

 

いったりきたりの学び方を、遊びながら学ぶプロジェクトに持ち込むことによって、これまでの線形の学びやサイクルの学びとは対立するのでしょうか、または共存できるのでしょうか。この辺をもっと探究していきたくめらめらメラゾーマしているところです。

 

とりあえず、「学び方はいったりきたりの緩やかなサイクルなのかもしれません!」と、仮の定義として仮押さえしとこうっと。なんか授業でいろいろ試したり実践してみて、その反応から新しい気づきがあったりすると、やっぱり授業っておもしろいな。

 

あ~、楽しかった。


学びの遊び化プロジェクト 科学者の時間「風とゴム編」

 

オイラの科学者の時間「風とゴム編」をはじめました。ひょんなことから6月より理科を教えられることになりました。そこで、前任校で感覚とつかんだ科学者の時間のように、いっきに「遊び」から入ってみました。「遊び」が生み出す楽しさは活動をどんどん推し進めてくれます。子ども達は、いろんなものをつくっては、発表してみる。ただ遊ぶだけではなく、共有の時間を大切にしながらすすめています。

以前よりふつふつと考えていたことに「遊びを学びに持ち込めないか?」ということ。これまでのやや構成的な教科書ベースの学びの場に窮屈さを感じていました。かといって、任せっきりでもうまくいかない。遊びを起点として、その試行錯誤を学びに昇華することができるのかも?そう思えるようになり、科学者の時間としてあらためてはじめてみました。

最初のミニレッスンでは、風とゴムの車教材を配って、「とことん遊ぼう!遊んでみたことを教えてね」と。自学ノートにすでに、輪ゴムでっぽうを研究している子がいたので、それを例に「発明カード(自分の発見を紹介するカード)」の書き方を説明しました。最初なので、名前を書いたりと色々な時間もかかるので、2時間続きの理科としてみました。

子ども達のワークタイム(活動)をみてると、弓をつくっている子がいるんだけどぜんぜん飛ばないし、ゴムがきれてしまうので、うーん、とうなっている。どこからかホワイトボードや本をかき集めて気は、車のコースをつくってみたりする子も。帆も立てずに車を走らそうとせっせと送風機を回しまくっている子。風車をつくってみたり、みんな遊びに夢中でした。これ勉強している感じが驚くほどないんだけど、最初だけに、それでいいと思いました。ここから、いろんな法則が見つかっていくことなんでしょう。

しばらくすると、勝手に友だちとつながって、でかいトラックを作り始める子も。遊びは協同を引き出しますね。遊んでいて勝手につながっていってしまう。けれども、よくみていると、入れてもらえないのもあり、けっこう社会性を学習する場にもなっていたりしてる。

 

全体的にみんな鼻息荒くせっせと遊んでいるので、カンファランスにはいるのはこの時期はただのじゃまみたいで、気軽に「なにしてんの?」程度にとめておきました。

最後に、共有の時間。子ども達はせっせと発明カードを書いてもってきてくれましたが、全部の紹介はできないので、4つほど自分たちで紹介できました。科学者のイス(祖母の家からもらってきた踏み台)にちょこんと座って嬉しそうにみんなに自分の特別な発見を紹介してました。

すでに輪ゴムの数で強さに変化があることが見えている様子。それも、車を作って遊んでいるからその速さを競わせようとして、「より速く車を走らせるには?」と。その後は、休み時間にも勝手に遊び始めているのがいいなぁと思いました。「イガせん!車に羽つけたらがフワッととんだぜ!」って教えてくれました。

帰りがけ、自学ノートにワクワクメニューでやってくるって。オイラが「それってバッチリメニューのほうじゃないの?」ってきくと、「ええええ!?理科って勉強なの?遊びじゃん」だって。しめしめ。「明日、理科ないかな?理科ないかな~?」なんども尋ねくるので、「先生にも都合があるんだよ。来週だな」なんて、ちょっと意地悪も笑。本当に、楽しかったようで、三分の一の子がジャーナルにかいていました。

 

多くの子ども達は受動的な遊びに慣れてしまっています。そして、習い事ややるべき事におわれ遊び尽くす体験を失っているようにみえています。ゆったりとした時間軸の中で、やりたいことを没頭したり、くつろぎながら学んでいく学習環境をつくっていきたい。それが学びを遊び化する意味です。遊びには、道徳心を養う社会性や感性、問題解決する創造性や挑戦性といった体験が詰め込まれています。もちろん体力だって必要です。なによりも、自由意志から出発するので、心の満足感がはんぱないし。

遊んでいるとき、一番楽しいときにこそ、人はよく学んでいる。ならば、学びを遊びに変えていけばいいじゃないの。端から見れば遊んでいる様にみえることが実は深い学びの種だったりして。これが学びの遊び化プロジェクト。

今の学習はガイドラインやカリキュラムにちょっと縛られすぎているかな。そこをもうすこし距離をとってみることで、ゆるやかなカリキュラムデザインに遊びの要素を持ち込むことが可能だと思います。しかし、遊びをただもちこむだけだと、これまでの「意図的・計画的」な学習が予定通りにはいかなくなります。教師が意図していることとはまったく別のことや、一見ムダな活動となってしまう場面も増えてしまいます。しかし、その一見ムダに見える活動にこそ、実は意味があったりもします。帆を立てない車に風を懸命に風を送り続けている子や、飛ばない弓矢をつくっている子。そういうことにこそ、言葉になる以前の体験知の積み重ねがあるのかもしれません。

遊びが発動するときの、子ども達は楽しさのフロー状態にいます。少し難しい課題へと挑戦し、その活動には学習者の自由意志があり、操作している道具からの即時フィードバックがもらえるからです。これは一斉指導でだれもが同じタイミングで同じように学んでいく学び方では生まれにくいものです。

学びの遊び化プロジェクトには、

① 時間のゆとり。試行錯誤できるゆとりを確保し、

② 即時フィードバックをもらえる(羽をつけたらとんだ!といったように)実際に操作できる道具や教材が個々にあること、

③ 友だちとの協力することや、自分の発見を共有する場があること。

これらの要素を組み込みながら、進めていきけそうです。

きっと、このような遊びからの発見を、友だちと共有し、教師がうまくファシリテートできるのならば、その発見は広がっていきます。その広がりをそれぞれが検証して、体験知がたまってくれば、自然と物事の法則や秩序といった概念を獲得できるはずです。これは、ただ教科書を読んで理解するといった授業とは大きく意味が異なるはずです。

一方、学びを遊び化することでもしかしたら遊びを道具化してしまい、本来もっている遊びの本質を傷つけてしまわないか、矮小化してしまわないか、というあやうさもはらんでいるかもしれません。そういうことも含めて、今後、挑戦しつづけたいプロジェクトです。オイラにとってはこれは、教材研究という遊びなのかもしれません。

遊び化することで、楽しさを創り出す。楽しく学ぶとは、だれかの手のひらにのせられる操作的な学びではありません。お釈迦様の手のひらを飛び出していくような孫悟空でありたい。楽しさは自分で創り出し、さらには、一緒に試行錯誤している隣にいる友だちと一緒に作り出していくものだと思うからです。

オイラの予想ですが、この遊び化プロジェクトはワークショップ授業と相性がとてもいいのではないか、ということです。これを機に磨きがかかっていくといいなと思います。

興味ある方は一緒に研究しませんか?どんな教科でも可能でありそうです。

あ~、たのしかった!


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帆にするはずの厚紙がボディーに…。ま、いっか。

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理想にひっぱられると、あるがままの子どもがみえにくくなる

 

ここにきて子ども達の様子がぐっと落ち着きをみせ、相手を大切にして聴く、伝える、受け止める、という場面がふえてきて、ほっと一安心。振り返ってみると、ここまでちょっと二の足を踏んでいた感じがします。

たぶん、オイラの中にある「昨年度修了時の3年生」のイメージに引っ張られていたんだろうな、と思う。そうだよね。まだちょっと前まで2年生だった子たち相手に、いつのまにかこっちは勝手な期待値をもっていて、じっくりと待ててなかった。

もちろん、子どもたちに高い期待をもって臨むことは必須です。でも、そこに子ども達を強力にあてはめようとしてしまいがちに。そもそもそれが学校の機能ですが。教科書しかり、学習指導要領もしかり。

これにのっとていると教師はものすごーく安心しますが、そのぶん、そこをせっせとカバーすることで思考停止してしまうあやうさもありました。

これらにあてはめようとするのは、「この学年ではここまでできるのがアタリマエ思想」構造と同じように感じてしまいました。おしすすめれば1977年生まれは、今、どこまでできていると正解なのか?というついでにトンチンカンのような問いが生まれてしまいます。笑

教師自身が経験をつんでくるとそのぶん、「理想の3年生像」のようなものにしばられやすなってしまうのかもしれません。目の前の子どもたちに応じて!とは思うものの、やはり「口うるさいおこごとおじさん」になっていたのが、この1学期当初に少し時間がかかっているかもしれない。もちろんじっくりと時間をかけるのはいいけれども、一方的に持つ理想像は、成長の兆しのようなものがみえにくくしている装置になってしまっていたかな。

いかに、目の前の子どもそのものを、評価判断を脇に置いて、そのまま、あるがまま受け止めようとできるのだろうか。どうも、学校にはすることや教えることが多すぎます。社会化という目的にむけ、子どものもつ感性やその時代にしか味わえないなにかを削りながら教育しているのかもしれない。本当にそうすることがいいのだろうか。そこに疑いの目を向けられるようになってこられました。

カリキュラムデザイン、UbDといった逆さまデザイン、この辺のものも対立するのでしょうか。すぐれたカリキュラムがあることと、それを運用している教師のメンタリティとは異なりますが。よく指導案をすてて授業をするといった表現がされるけど、子どもにつきあっていくってそういうことなんでしょう。

自分のこだわりをおくこと。それは「コダワリなんて、んもうおいちゃう!」と決めることから始めてみると、あとは弾み車のように、子どもの姿に影響されながらもどんどん進んでいけるんだと思う。これまでワークショップ授業をやっているとそういう感覚によくなれていました。はやくワークショップ授業に没頭したいな。

んじゃ、子どもはあるがまま、ほったらかしでいいのか、自然のままでいいのか、というとそうではなくて。やはり、学校の中でしかできない目的があるはず。そういうものを教師、保護者、時代を鑑みてさぐっていかないと、知らず知らず忍び寄ってくる「理想の○○」に脳みそのっとられちゃう。

それは、日々、子ども達と接していると刺激と反応に埋没しながらやっているのでとても気付きにくい。ちょっとスピードを緩める意味でも、違和感を言葉にしようと文字にしてふりかえってみたり、なにか抵抗していかないと、「すっきり教師」となり、モーレツ邁進していってしまうんでしょう。

おー、怖い、怖い。

小難しいことを考えず、まずは、ひとりひとりと気軽なおしゃべりからはじめてみようと思いました。かかわり続けるからこそ、その子に大切なことや求めることが見えてくるんでしょう。

なにもないからこそ、純粋に子ども達と放課後や休み時間一緒に遊んでいたあの頃。そういうときこそ、感情的な満足感と癒やしがあり関係性が安定して、あの未熟な頃のオイラがやりきれたんでしょう。初任の頃のオイラに負けないように(今年度は初任者ですが)、相手の存在を、そのまま、あるがままをまるのみできる存在でありたいですな。

 

あ~、なんかスッキリした

プールの自由時間しない派だったオイラからみえてきた無意識のコダワリ

 

自分がこれまでもっていた思考のクセというのでしょうか、無意識のコダワリのようなものが顕在化した体験をしました。

今日は水泳指導3回目。ドル平(足はドルフィンで手は平泳ぎ)を主に教えていて、水泳の時間だけれどもなんだか、音が静かでヨガの時間のように子ども達とゆったりとリラックスするような時間が流れていました。

予定していた練習も終えたので、さて終わりにしよっかって、声をかけると、「自由!自由!自由!」と、自由をもとめて訴えている子ども達。小さな尾崎豊がたくさんいました。それに呼応するかのようになにか忘れていた心にしびれるものを感じました。かれらは決して自由を求めているわけではなく「プールでの自由時間」がほしいとのことです。

前回の水泳学習では、オイラがギックリバック(ぎっくり腰ともいふ)で、替わりの先生に替わってもらえました。そのときの自由時間が2回あったことを嬉しそうに振り返りに書いている子もいました。

オイラはこれまで学習指導要領にあわせて身につけてほしい水泳能力と、それにあわせて年間指導時数をわりだすと、いっさい自由時間をもうけることはできませんでした。そういうのは夏休みのプールだったり、低学年の水遊びまでとどこか割り切っていました。やっぱり、あの苦手な子ども達には少しでも泳げるようになってほしいという願いがありました。さらに正直言えば、「自由時間」という指導時間はありませんよね、というかんじ。

けれども、今日の水泳の時間にはあと5分だけれども自由時間をとれる時間がありました。むむむ。だったら、もう少し練習・指導したくなる自分の気持ちと、いやいや、やっぱり子ども達のそういう時間も大切にしないといけないなと、葛藤しているオイラがいました。

そういう自分に気付くと、「あれ、オイラ今、目の前の子どもたちを置き去りにして、教えるべきことを優先してるかも」って。教師がもっている教えるべき事、教科書に子ども達を当てはめるの、やっぱりへンだってこれまで言ってきていたのに、瞬時にそういう判断をしようとしている自分がいました。

あわわわわわ。

なにか大事なことを忘れていた。後で、職員室でそんなことを話していたら、「よかったじゃない。子ども達が泳げるようになる前にプールがキライにならないで」って、笑って話されました。ふむ。感情的なものを大切にしているつもりではいたものの、好きとか楽しいとか、置き忘れそうになってました。新しい職場に変わり、ある意味これまでの文化を相対的に観られる経験なのかもしれません。

これまで自分が大事だと握りしめていたことが、本当にそうなのかな?って少しずつ考えるスペースができる体験をしています。そうすると自分がこだわっていたものがするりと流れていってしまい、後ろにはオイラの抜け殻がたくさん。それは魅力でもあるけれども、そこに立っているオイラはなんになるんだろうな?という未知なる不安と興味があります。

でも、子ども達とその後、中休みまでも存分に水遊びをしました。ぶんぶんかれらをなげまわし、水にすべりこんで楽しかったなぁ。さすがにくたびれました。眠い。

あ~、楽しかった。

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