教室で生き物がいること
ウーパールーパーが卵を産みました。
今朝、教室に入ると蛙の卵みたいなにゅるにゅるしたゼリーにつつまれたタピオカみたいなのが水槽に沈んでいます。
ここ数週間、色んな人と出会ったり再開する機会があり、そのたび「ウーパールーパー卵産んだ?」と何度もきかれていました笑。
そのたびに「まだですねぇ」「春がくるころでしょうかね」「そろそろ春ですね」と、オイラにとっては、もう季節の挨拶状態でした。
というかウーパールーパーみんな好きじゃん!チェックしてるじゃんって笑。いい人たちばかりです。
毎朝、教室に入ってくると挨拶と同時にウーパールーパーに声をかける子がいます。その子は本当に好きそうで、毎日せっせとウンチをとってくれてます。
「あー、はやくたまごうまないかなー。生んだらもらって、は虫類嫌いのお父さんを説得するんだ!」っていつもわくわくしています。
そんな子に卵の姿を見せてあげたいなとおもって、そのままにしていました。
すると、男子たちがいつものように「いっがっせーん!おーっす」と入ってきました。先に(みつかっちゃうかな?)と思う気や、彼らは瞬時にしたくをすませ、ボールをもってソッコー遊びにいってしまいました。
おやおや、だれも気づきません。そうかー!?もしかしてウーパーを気にしているのはオイラとその子のふたりだけだったのかも!?
そういう時にかぎって、その子は電車の遅れで遅刻気味でした。オイラはその子がどんな顔するだろう?ってこっそり楽しみにしていました。
すると、他の子たちが「卵だ卵だ!」と盛り上がりはじめました。群がっていると、その子がいよいよ教室にやってきて、「卵がうまれたよ」と教えてあげると、おもむろに顔をパンパンして
「夢かとおもっちゃった」だって。
いいねぇ。こういうの。
教室に生き物がいるって、多くの子にとっては、いてもいなくてもぜんぜん関係ないのかもしれません。
でも、教室の中では目立たなかったりするけど、実はとても熱心に世話をみてくれたり。生き物が好きだったりする子にとっては、いろんなことを感じる機会となっているようです。
これまで不登校の子どもを担任してきたときだって、教室のウーパーの世話をしに登校してもらったし、オイラはいろいろ助けてもらっています。
これまでウーパーが死んじゃったときだってなんかみんなでしんみりしてお墓もつくったし。その後、墓荒らしにあって犯人をさがそうと張り込みをしたことも。犯人はネコでうめるときはちゃんと深く埋めないといけないねって。
だれかか熱心にウーパーの世話をしていると、その熱に感染して自然と仲間がふえてもいきます。ウンチひとつとるのも時限爆弾の解除みたいで楽しそう。昨年は学年の先生たちもいっしょに各教室で飼っていましたし、自然と話題はウーパーの話。
これからも、こんなふうに生き物を大切にしていける教室をいっしょにつくっていこうと思います。
学年の先生とは「バジルシードみたいだね」「いやいやタピオカでしょ」って朝から笑っています。いい職場です。その味は親ウーパーしか知りませんが。ほっとくとよく食べてますから。
あともう1回ぐらいは産みそう。2周目(昨年も産んでいる)のほうが生存率がいいんだって。しばらくは水温15度であんまり水質を変えずに落ち着かせておこう。さっそくえさ用のブラインシュリンプを買いに行きました。これって当時、流行ったシーモンキーなんだって!なつかし。塩水でかえすのも楽しみ。楽しみ。
あ~、楽しかった。
あの人からはどうして「学べる気がしない」のか?「誰から学ぶか」から「誰からでも学ぶ」へ
あの人からは、どうしても「学べる気がしない」、たったひとつの理由:「何を学ぶか」から「誰から学ぶか」へ
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/9898
その教えてくれる人のあり方しだいで、その話を聞きたいとか、聞きたくないとかそこで評価されてしまう。まさに、そうだなぁと思います。
いやな奴だと、そこでカチッとスイッチオフ!問題な〜し!
となりがち。一方、実際に働いているとそんなにいやな人はいないし、いいとこもあるし、もちろんいやなとこもあるのが人間です。
そこで、その人から学びたい人と学びたくない人の「間」にある「それほどいやな人でない人(この言い方が正しいのかはわかりませんが)」たちからも学んでいけるためには、一体何が影響しているのか、ブログ読んで満足!と思考停止しないで考えてみたくなりました。
どうして学びって、教わる人のあり方に大きく左右されてしまう自分がいるのか?このへんは紹介されている本を読んで深めたいところですが、今は手元にありません。なので、手元にある頭をねりねり、自分自身に矢印を向けて考えてみると…。
「イガせんからもう学びたいくない!」
「イガせんはあり方がけっこう悪いやつだからもうこいつからは学ぶのはやめる」
とボイコットされたとします。大ピンチです。教師としての自分、教え手としての資質そのものが疑われてしまいかねません。それはいや!
それでも、こういうことは何かの手違いであったとしても、十分おこりうることでしょう。こうフィードバックされたとき、自分はどう受け止めるかが問題となってきます。
教員経験が増すにつれ、保護者からもびっくりするような感想をもらうことはときにあります。または同僚との意見の対立などは目指すものがあれば対立は避けられません。やんわりと伝え方だけでは解決せず、その人のあり方も総合的に影響してきます。
そんな「相手が尊敬マックスな人でない!」時どう受け止めて、対応していく自分がいるのか?
1 それを受け入れてつながりながら改善していく
2 そのままなかったこととしてやり過ごす
3 反発して相手を徹底的にやっつけようと攻撃する
4 自分のせいにしてふつふつと鬱傾向になってしまう
意識的にしても無意識的にしても、どの選択にも、主体は自分にあります。
今の自分には相手が「何を言っているか」よりも「だれが言っているのかの」ほうが影響が大きいと思います。でも、それじゃいけないんんです。
自分の一番柔らかいところを突かれてしまうときがあります。これこそ、そのフィードバックをふりかえらなくてはいけないときなのかもしれません。
でも、そういうときにかぎって、「あいつは嫌なやつ、いやなあり方だから」と相手のせいにして、人にかぶせて、内実から目を背けようとしてしまう。
それをしまうときが確かにあるなぁ…。反省。
きっとそこには物事をみる自分の見方そのものに歪みがあるんだと思う。健全な自己評価が低い自分がいるんでしょう。
見下してしまった自分は、自分よりも劣っている(とゆがんで判断した)人からのフィードバックを受け入れにくくなってしまいます。そこに成長の種があるかもしれないのに。
これは教師としては致命的です。
おし進めてみると、自分よりも未成熟な子どもからのフィードバックは、「自分よりも劣っているものの意見はきかぬのだ」と耳をすりぬけてしまうからです。
それでは、教師としてフィードバックのもつほんとうの効果を発揮できません。フィードバックは教師が与えるものではなく、教師がなにがしかの指導をし、学習者が示した反応したそのものがフィードバックだからです。
自己探求をはじめ、「どうしてあの人の話はききたがらない自分がいるんだろう?もしかして、あの人がいっているからではなく、本当にイタイ真実をついているからなのかも!?」と、自分に矢印を向けない限りは本当の意味で他者からのフィードバックを受け入れ、いかすことは難しい。
全部はうけとめきれないけれど、そういう繊細さと健全な鈍感さを併せ持つことができるといいな。
自分のものの味方に気づいて、自信を日々メンテナンスしていくこと、大切だな。そう感じさせてくれる記事でした。
あ〜、おもしろかった。
自己評価に関しては、この本が参考になりました。
演劇をはじめました
脚本を子どもたちといっしょにつくっています。
初めてのことなので、どうなるかわからない。けど、なんかとても不安で、でもわくわくする。この感覚ひさしぶり。自分の落としどころがない中で、子どもたちと同じ温度で、いや、それ以上に学んでいかなければいけない。
こういうときの熱量って、子どもたちに感染していくんだろうな。
さっそく、演劇にかかわる本を1コーナー買いあさって読み始めてみました。ふむふむ。映画と演劇の違いね。そこには対話性があること。ふむふむ。演技とはコミュニケーションであるとか。ふむふむ。
わかるようで、頭でしかわかっていない。ぜんぜん実感をともなっていない。
そう、実感。頭で考えつくすことはもちろん大切なことはいうまでもないけれど、それと同じだけに感じてみる体験もバランスすることが大切だなと思うのです。
子どもたちとの話し合いで、毎時間、インプロ(即興劇)をすることにしました。学年の先生から、「いきなり劇はむずかしいから、少しずつ体をつくっていくといいよ」とアドバイスをもらったからです。
今週は子どもたちとシナリオづくり。そのウォーミングアップでインプロゲームのひとつ「フォークとナイフ」をやりました。これがまたいい!なにがいいかって、その後の話し合いの雰囲気と距離感が驚くほど近づく。こんなウォーミングアップ、もっと早くからやっていればよかったって、後悔するほど。
本来、はずかしがりやのオイラ。人前で演技するとかすごいはずかしい。これほんとなんだけど、だれも信じてくれないから自分で言う。教室でも、子どもの前でもそういうことは極力さけてしまう。なにかかぶり物とか着ぐるみとか、身にまとうものを一度着けてしまうと、ぽーんとはじけてしまうようですが…。ふむ。仮装には人を変える力がある!?
子どもたちとペアを組んで「ナイフとフォーク」「10・9・8…1・0!」とカウントダウン。どちらかがナイフを、もう一方がフォークを、しゃべらないで瞬時に演じなければいけない。相手の都合をみて自分がどっちをやるかをきめる息をあわせる構造となっているようで、瞬時のコミュニケーション能力が要求される。
子どもたちはいとも簡単にナイフとフォークを演じあげ、お次の「怒ったヤカンとかなしげなコップ」も瞬時につくりあげてました。感情表現を演技にいれると、動きがでてきておもしろい。みんなでおすすめのペアを見合ったりして、大爆笑。これは3年生だからこそ恥ずかしがらずに心からできるのかもしれないけれど、ほんとに楽しい。おすすめは「トイレとトイレットペーパー」2人の仲が親密になります笑。
この体験にひっぱられてか、その後の話し合いは大きなトラブルもなく、楽しそうにわきあいあいとアイディアをだしあっていました。
既存のシナリオを使おうとほぼ考えていたけれど、来年、再来年とまとめの会を続けていく子どもたちにどんな力を身につけてほしいかな?と考えたら、やっぱり、自分たちで考え、つくりあげてみた演劇体験ってしてもらいたい。今のオイラにとってはこのことが大切だと思えてきました。
けど、まだぜんぜん演劇についてわからないことが多すぎる!よかったら、アドバイス、おすすめの本を教えてください。
今回、TTP(てっていてきにぱくる)をしたのはこの本。
本屋で何気なく手に取った本。でも、ほんとよくできていて一つやったらその先のステップもある。しばらくはこれを使って、表現することの楽しさをオイラも、子どもたちも味わっていこうと思います。
さて、どんな脚本と作品ができあがるかなー。
あ〜、ドキドキする。

やるかやらないか
学年末にむけて、新しいことをはじめるかモヤモヤしています。
3学期に入りすでに2月。
今やろうとしている見通しのある授業Aを計画どおりやれば、研究もすすむしそれはそれできっとおもしろい授業になると思う。
けど、新しい授業Bをこれからはじめようとすると、たぶん、うまくいかないことや問題が勃発してばかりで、青写真が描けない。それに、今からかなりモーレツに勉強しないとけいない。
そのぶん、子どもたちも同じように今見えていない学びがうまれるはず。だから挑戦したい気持ちもある。
どちらにも、100%のリソースを全力でさけることはできない。やるならどちらか一方だ。あれもこれもは結局、何も身につかないことを一番知っているのは自分だから。
「逃げちゃおうかな」
ほおっておくと、予定調和で終わらせようかなって気持ちがふつふつとわいてくる。
「やりたくないなぁ」と二の足を踏んでいるときって、見通しがたちにくいこときや失敗しちゃうかもしれない不安要素が多いときなんだなって、気づく。
そういう不安なときって、そもそもその気持ちに気づけていないことが多い。だから、なんかずっともやもやしていて、ずるずるしてしまっている。
「あっ!今、自分、困っているんだ!」って、昨日、学校のトイレで手を洗っているときに気づけた。トイレに入ったら、必ず手をあらいましょうは、ほんとだったんだ!
どうしたらいいんだろう?不安にふたをするか、それともやってみるか?
ふだん、「チャレンジ、チャレンジ」って子どもたちに言ってしまうけれど、実は子どもたちにとってもそんなに簡単なことでもなさそうだとわかる。
無神経に「チャレンジ、チャレンジ」って応援してしまっているのかもしれなかったな。これからは小さく応援することにする。
なにかをはじめるときって、不安がつきものなんだなぁ。自分への期待が高いことがジャマしているのか。自分へのできようができなかろうがアルガママの信頼、そういう自分を受け入れながら、変わろうとしていけるのか。
まっすぐに進んでいることなんかないなぁ。
あと、ちょっとだけ、今の気持ちを抱えておこう。明日の朝、起きたら、きっとなにか気持ちに整理がつくかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それでいいとおもう。もう少し、モヤモヤといっしょにいることにしよう。
そうやって、先生をやっていこうとおもう。
あ~、モヤモヤする。
感じる算数「数字をつくろう」1回目の出版
2学期から続けてきた「数学者の時間」で、自分のオリジナル数字をつくろう!が一段落し、いよいよまとめて冊子にできました。
子どもたちも「これ一人に1冊もらえるの!?イガせんありがとー!」と喜ばれ、いい先生モードが勝手に演出されてしまっています。しめしめです。
これで3回目の数字づくり。ようやく自分のコンテンツになってきました。数字づくりは、概数で紹介されている大きな数の一つ「エジプトの象形文字」をもとに、自分でもつくってみよう、という時間です。
「つくる」って操作では、古代の人たちが表現したかった工夫や熱のようなものを味わえたりできます。つくりだす楽しさやデザインを通して、数字の持つ使われ続けてきた理由、そのシンプルさや使いやすいといったその機能美に気づいたりもできます。
なによりも、これまであたりまえのようにあった十進位取り法の本当のよさを味わうことができました(位に文字をあてはめちゃうと0~9の数字だけで全ての数を表現できちゃう!)。
でも、位取り法はそれが持つよさをじわっていないからか、計算処理としては分かっているようでじつは分かっていないことが多くあります。ついつい10といった数字を古代の人達と同じようにつくってしまう。するとどうなることが起こるのか?続けて、11も、12もさらには20~100までの記号を作らないといけなくなります。その先は?となると「わざわざ」つくらないと、数を表すことができない。これではいつまでたってもおわりがありません。
でも、そういう100までつくるときって、なにか自分だけの暗号をつくっているようで本当に楽しいようです。その作業に没頭している子どもたちの様子をみていると、癒やしの時間のようにうつっていました。自学ノートでも、普段、興味を持たなさそうな子までも取り組んでいるのをみていると、その「つくる」威力に圧倒されます。
数字づくりには、なにか「癒やされる」そんな時間があると思います。2学期末に雑誌の取材が入ったとき、「この時間は動きがちがうね。本当に楽しそうにたくさん話しかけられたよ」と話してもらいました。この時間は何かの見方・考え方といったコンピテンシーを身につけようとしている時間ではなさそうだけど、数学している人として癒やされていようです。
さて、「大きな数字を表すには?」にもどると、やっぱりここで0の発見がかかせません。今年はある女の子が「くらげ数字」で発見してくれました。0があることで、1~9、そして0の10この数記号で全ての数字を表現できてしまう。
インドでも0の発見とともに、その後の測量文化が一気にひらけていきました。まさに、そのプロセスをあじわえた瞬間でした。
今年の子どもたちは角度や時計といった「量」で表現したり、5をひとまとまりとして6を5+1で表現したりと、位取りを越えて数字をつくっていました。さすがにオイラも、「お見事!」とうねってしまいました。
時を越えて、以前の子どもとまったくおんなじ数字をつくっていた子もいました。以前の子は「太陽数字」で、今年の子は「かびかび数字」。前者はなにか根源的なエネルギーを感じるし、後者はユーモアが効いていていいですね。
今回、とくにいいなと思ったのは「角数字」です。学校では3年生で角を学習します。その角の数で0~9を表している。「7なんかどうやってあらわすのか?7つも角あったら読みづらいよね」って数人で話し合っていたとき、「家の形にしたらできそうじゃん?」って。7がおうち。いいですよね。こういうの。
こういった授業をしていると、やんちゃな子ほど、発想はクリエイティブ!やっぱり、教室で管理教育したり、しつけといった強烈な指導をし続けたりすると子どもたちの発想を引き替えにトレードオフとなり、創造力が貧困になってしまいますね。くわばらくわばら。
自分自身を振り返ってみても、形成的評価を意識して、授業をつくりあげることができてきました。子どもたちの作品を取り上げながらのミニレッスン。それによって、子どもたち同士のつながりも生まれ、ますます活気づく。やる気や楽しさは、学びを遊び化するブースターとなっていますね。この「数字をつくろう」で何に気づいてほしいのか、どんなことを感じてほしいのか。そういうことも整理されてきました。やっぱり、授業でなんどもつくっていかないと、いいものにはなっていかないものですね。
さて、感じる算数もここまで。今月からいよいよ探究する算数へ。数学アドベンチャーへレッツゴー。って、すでに算数の単元をちゃっちゃと終えた子たちが「問いづくり」を初めてもらっています。さて、どうなることかなー?
あ~、楽しかった。