運動会に思うこと

 

運動会が終わった。朝の時間から1時間目までをつかって、サークル対話をした。

 

「ふりかえりたい問いはなんだろね?」って投げかけてみると、まだ休み明けでスイッチが入っていないのか、ぴんとこない様子。しばらく考えてから、ちらほらと問いがうまれてきた。その中でも、「棒引きの作戦がどうだったのかふりかえりたいな」って1人ずつ感じていたことや考えたことを聞かせてもらった。

 

普段なら、すぐに「運動会終わって、自分が努力したことや成長したこと、クラスが変わってきたこと」なんて教育的価値の高そうな問いをこっちからすぐに渡してしまうんだけれども、そこは焦らずにまずは子供たちのふりかえりたいことからはじめようと試みれた。それが結果よくって、不思議とオイラが意図していたことはかるく出てきて、はるかにいい話し合いになる可能性を感じた。

 

ある子が「棒引きで、ゴールを決めて、作戦をつくったので、数学者の時間でも同じように、作戦をちゃんとたててから問題をとこうと思う」と話してくれた。おお、学習が転移させようとする瞬間じゃないですか。いろんな体験がたまってきて、そういうのがでてくる時期になってきたのかな。にたにやして聞いてしまった。

 

個人にフォーカスが当たって、子ども達同士の関わりのことが少なかったので、「がんばっていたともだちっているかな?」と、なげかけてみた。みんなでほっこりした気分になって終わった。いま、大事にしたいことをビーイングに記録しておこう!と、書き込んでおしまい。いいじかんでした。おしゃべりのようなふりかえりがあっという間。一人一言話してもらうチャンスをもうけたのもよかった。


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今年の運動会、なんと奇跡的に赤団、青団、白団、すべて同じ640点。なんと同点優勝!得点発表は、「おおおお~」と会場がどよめいた。そのテント裏では、優勝カップをどのように授与するのか、あたふたもしていた。でも、みんなほっこりと幸せそうな顔して帰って行った。うん。それでいいんだとおもう。みんなが幸せになれる運動会ならなおさら。むりに、勝敗を作って、扇動する必要なんかないんだろう。

 

じゃ、勝ち負けぬきの運動会がいいかというと、そういうわけではないな。一生懸命、そこに向かうからこそ成長したり、失敗したり学ぶことが多くなる。オーナーシップ

どこにあるかってこと。主役となる子供たちにちゃんとそのコントローラーをわたしていたのか。今の公立学校ではラディカルに大きく帰ることは難しいかも知れないけれど、少しだけでも「子ども達に手渡す」ことを増やしていけば、きっと変わっていけると思うし、そこにはこだわっていたい。

 

そういう意味では、我が学年のオリジナルダンスは手前味噌ながら、とってもよかった。それは、学年の表現では、4クラスばらばらでそれそれの踊りをおどっていたから。みる人からすると、「なんだか揃ってないなぁ」って映るかも。でも、全員が最初から最後まで寸分狂わず集団行動ではない、そろわない美しさがあったはず。

 

オイラは、表現をするときは、必ず「じぶんたちのおどり」をいれてもらってきた。そういうプロセスをとおして、少しでもその表現が自分たちのものになってくると思っていたから。そして、そうなった。でも、じぶんたちでかんがえるっておもっていたほど簡単ではなくて。そういう悩みながらも練習しつづけるこの4週間は貴重だったかな。ほんと、学年の先生達とは夜な夜な打ち合わせ、楽しくも形成的評価をどういかすかのよい学びともなった。

 

応援団も今年関わらせてもらうことができた。どの団にも、子どもたちからアイデアをだそうと話し合ってみた。時間のない中で、しかもあれこれ準備や指導の大変な応援団。「例年通り!」でもなんら文句も言われないけれども、やるならやっぱり子どもたちのもつオーナーシップをひきだしたい。そんな願いで、各団取り組み、それぞれお笑いあり、なぞのバナナダンスありと意欲的。

 

任されて、決めたり失敗できるチャンスががあると、その学びはきっと自分のものとなるはず。運動の不得意な子にとって選択肢のない運動会。だからこそ、せめて、子どもたちの思いや試行錯誤できるスペースを用意してあげたい。美しくスピーディーにまとめようとする衝動をぐっと教師はがまんし、多少、上手くいかないこともご愛嬌。子どもたちにまかせられるリスクをとれる教師でありたいなぁ。

 

ほんとうに任せることは、いつでもフォローできる自信があるからかな。だからこそ、教える教材への深い洞察とその専門性を手放す気風の良さが必要。そして、最後までフォローし続けられる(形成的な評価)技術。ついついでてきてしまう先生のスター性、カリスマ性をごくんと飲み込んで、子ども達の試行錯誤にこそ学びが生まれると思えるか。子ども同士の関係性に頼った、ただのほったらかしでもだめで。

 

 

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ま、運動会、無事おわれてほんと幸せでした。サークル対話で手垢まみれのムーミンもいつのまにか洗濯されて、窓際にほされているのをみて、あぁ、日常が戻ってきたなって思う。

自学ノートに「考える楽しさ」をパズル問題で



宿題が効果が無いっていわれているのは、ある意味真実。それは、学習者が「考える楽しさ」を作り出せていないからであり、一律にだれもが同じような習熟ドリル練習を課されてしまうからだろうな。

学習者が自分で学びを少しでも改善していけるように、繰り返しドリルの扱い方について、子どもたちと話し合いで決めてきた。自主学習ノートの1メニューとして、ドリルなどはばっちりメニューにも取り入れて、ある程度のバランスをとれるようになってきた。それなりに「自分なりの学び方」を身につける練習となってきた。

でも、ここ数年、そのバランスの取り方がどうも違うと思うようになってきた。それは、わくわくメニューでは補えていなかった「考える楽しさ」を追求しきれていなかったから。

そこで、最近では、オイラから「イガもん(イガせん問題)」として、考えるパズル問題を定期的に手渡している。

パズルはドリル練習と異なり、評判がいい。それはドリルが退屈であるからといった理由からではなく、「うーん!」とうなって考えて、試行錯誤して、それでも解けなくて!って粘り強く考える楽しさがあるみたいだ。

とくに、迷路問題なんて子ども達は大好き。なんどもなんども、消しゴムで消し直して「できない〜涙」って。それもそのはず、なかなか難しい問題を用意しているから。「私がやっても、お姉ちゃんがやっても、お母さんがやってもできなかった!」と嬉しそうに話してくれる。そのプリントはもう、穴あいてしまい書けなくなっている。

「解けなくてもいいよ」って渡しているにも限らず、解きたい!気持ちがいっぱいでついついがんばってしまうようだ。粘り強く考える「しなやかマインドセット」を育てる練習になっているんだろうな。

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オイラはそれらの問題を毎日一問ずつ、参考書などをもとに「イガもんノート」に書きためている。今学期で、3冊目になりそう。どの問題がいい問題なのかなんて、最初はよく分からなかったけれども、いまでは、どうも解けない問題ほど子ども達にとっては「燃える」らしくて、良問となることがわかった。

その問題をせっせと学年の先生達にも配って、若い先生にもやってもらっている。すると先生ですら解けない問題もたまに出てきてしまう。でも、クラスでいっっっつも世話ばかりかかるとんがり小僧が「ふむふむ」としばらくプリントをながめつつ、鉛筆をおもむろに取り出してスラスラスララ〜って解いてしまう姿をみると、子どもの可能性に驚いてしまう。もちろん、算数が得意な子にとっても、苦手な子にとっても考えるきっかけとなっている様子。

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最近では、パズル問題をもとに、自分でも「問題作り」をして、実際に解いてもらうとなかなかいい問題が、自学ノートに集まってくる。きっかけは先生からはじまっても、自分でつくることで、そのオーナーシップが逆転しはじめる。毎日の自学ノートに「イガ先に挑戦状」があるので、けっこうしんどい涙。

ということで、クラスではパズル問題を自学ノートのメニューの一環として取り入れるようになったこの2〜3年。おすすめの参考書もあげておくので、ぜひ、それぞれの教室でも考える楽しさを味わってほしいなぁ。

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宿題は効果がない!なんて最近きくけれど、考えることを楽しむような宿題でその効用も変わってくるはず。修行僧のようにドリル3往復地獄から開放されてほしい。子ども達のため、ひとりひとりのことを思っているなら、なおさらのこと。

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問題作りをしてくると、かならずこういう歌舞伎者がでてくるのがうれしい。


子ども達の迷路好きをとことん追求できたいい本!


大人もうーん!と悩む問題


図形なんかもいい。とくに算数得意な女子が頭ひねってる!


あなどるなかれ!いろんなパズル問題の種類が豊富。

子どもから「オイラ今ためされる?」ってとき 

 

運動会に向けての怒濤の6日間がすぎた。でも、学校が楽しくてしかたがない。子どもたちと会うのが楽しみだし、頭をついついなでなでしたくなるほどいとおしい笑。成長したときの笑顔をみると、ギュッと抱きしめたいけれど、欧米でも無い限り倫理確立委員会におくられてしまうのでよろしくない。

にしても、学校内で大人を含め、よい関係がきずけているその一因には、今、ありたい自分でいられるからだと、振り返ってみると思う。

それは、子どもといえども、一人の人としてちゃんと受け止めること。Dignity(尊厳)というとかっちょよいけど、子どもも大人と同じように立派な意思のある人間。決して、大きな声で威嚇したり、管理口調になる必要はない。

オイラは、相手の言い分には常にアンテナを広げ、好奇心をもって寄り添っていきたいと思っている。それは、失敗したり、ケンカしたり、サボったり、いわゆるピンチのときならなおさらだ。その子なりの言い分やストーリーへ理解を示さない限り、いかに適切な指摘やフィードバックであったとしても、その子の変容できないと確信している。ごめんなさいシチュエーションにしても、うわべの行動変容はみられ、言葉だけの「ゴメンナサイ。ユルシテネ。コレカラハモウシマセン」へ、職人的な磨きがかかり、あたかも反省しているようにお互いが錯覚してしまう。でも、相手への配慮ある気持ちや失敗への洞察は浅い。なぜなら、そうせざるを得なかった自分の気持ちをちゃんとふりかえれていないからである。

もちろん、言い分やストーリーがあるからって、やってしまった失敗がチャラになることはない。ダメなときはダメってちゃんと告げるし、クラスのみんなにも相談もする。でも、ちゃんと自分がどうしてそんなことをやってしまったのか?への気持ちを少しでも聴いてもらえた方が、その後のごめんなさいの言葉が明らかに異なる。心からふりかえれたってことだと思うし、そう自負している。子ども達には、そういう「言い分まで聞いてくれる」サポーターが必要なんだよね。

かといって、ちょっとオイラから一方的に言い過ぎてしまったなってときももちろんある。そういうときは、後で近づいてってごめんねって。あらためて、気持ちを聞かせてもらう。それができるようになるのに恥ずかしながら、ここ数年。こういうことは教師をしていて最初からはできていなかった。あらぁ。赤面。

 

あ、ちなみに、一方的にものごとや考えを押しつけてくる大人はオイラはとても苦手。それでも、そういうときは、相手が大事な人にはちゃんと告げる努力をするか、「こちらから」相手のストーリーに寄り添うよう、分かってほしい気持ちをおいといて、こちらから声かけるようにしている。最悪、いつでもNo Deal(取引無し、つまり深く心のつながりをもとうとしない)という選択をも用意したいと思うが、その選択を使うことはまだきていないのが幸いである。無理してつきあうほど苦しいことはない。幸いにして、そういう職場でも仲間にもであっていない。

 

この1週間には大小さまざまなトラブルがあった。そのたび、頭の隅で「ピーン!相手をリカイシマショウ!」とかすかなりにもセンサーが鳴っているのに気づき、一方的にしかりつけることはなかった。センサーをらせられたのは、そこに意識が向いていたから。無意識にピーンとくるまでやはり、失敗しながらの一歩一歩の練習、努力が必要だった。

 

とは、いうものの、自分の大切にしている「かかわり」で常にいられるとは限らない。一方的に、こちらの思いを押しつけたくなってしまうときもあるし。かちんとくるときもある。それがでるときは「自分の弱さ」であると自覚している。そして、その弱さはたいてい、活動している最中や業間休みに応援団の練習が控えているときなど、時間の無いときに試されることがおおく、切羽詰まったときこそ、ありたい自分でいられるか、ためされることとなる。

それを垣間見た瞬間がさっき、算数の個別でカンファランスしているときにあった。

算数大きな数。授業も後半にさしかかり、子ども達は本時の練習問題を解いているか、予習をしているかドリルをじゃんじゃん進めているか、そんな状況になったころ。一人、まだ練習問題に苦戦をしている子がいた。

「どんなかんじ?一緒に考える?」と尋ねてみると、反応薄そうに「うん」と言う。数直線の仕組みが分かっていなかった。オイラの中に、ミニレッスンであんなにも丁寧にしたのに!って気持ちがふつふつとわいてきたと同時に、やっぱり一斉指導の限界ってこういうことだよな、集中の続かない子にとっては苦しいものだし、とわりと冷静に対処できていた。

でも、ていねいにくりかえしおしえるほど、だんだんその子の顔色がかわっていき、明らかにブスッとしている。説明しているのにそっぽを向いている。とどめに、「ふうー」とため息などつかれた瞬間、こちらも「おい!」と瞬間的におもう。いやいやだめだ、オイラはプロなんだから。とぶつぶつと自分に言い聞かせなんとか落ち着かせる。その子のストーリーによりそうチャンスじゃないか。よし、くじけず声をかけると、目を閉じているではない、か!笑 すごい抵抗勢力。「もうやめよう。先生も応援の練習があるからいくからね!」と、言いたい言いたい言いたい。

こちらも、「ふうー」と一息飲んで、「じゃぁ、一年生のときにやったんだけど…」と数直線、数の線、ものさしから始めた。できるところにもどると嬉しいようで、反応が見られるようになった。オイラが「ここが100ね。めもりは10こあるから、1目盛りは?」と押し殺しながら聞くと「10?」と聞いてくる。正解!なるほど、連続量は理解しているんだな。「なら、3年生1学期の問題ね。今度はここが1000なら…」とやってくると、だんだんその子の顔がパッと明るく晴れてきた。それに呼応するように、オイラの気持ちもパッと晴れてしまった。むむう。子どもにはすごい力がある。そこからはなんとか、トライアンドエラーを繰り返しながら、一緒に考えながら数直線についてクリアできた。

「イガせん? ○○(←自分の名前)、算数大好き。またやりたい」ってカラカラ笑いながら走って、外遊びに行ってしまった。

あのとき、ぴしゃりと打ち切らないでよかった。そうでなければ、こんなほっこりとした気持ちにはなれなかったから。その子は、学年の他の先生にも「もう、大きな数おわっちゃったんだよ~」って嬉しそうに話をしていたみたい。まだ、ぜんぜん終わっていないのに笑。

きっと、聖人君子のように泰然自若と子ども達と関われる日は来ないのだと思う。これからも、ずっと、かちんときたり、いらっときたり、試されながら、ときに、失敗もしながらも頭を下げ、少しずつ相手の気持ちに配慮し続けるありたい自分でいられる、そんな先生でありたい。


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数学者の時間 子ども達からの面白問題に頭をひねりひねり。

新学期がはじまった。

 

どんな顔しているのかな。ちょっとわくわくしながら子ども達にあいさつをした。すごい元気。そして、わらわら動いている笑。あぁ、教室に帰ってきた感じ。すっごい、ひさびさに会ったのに最初の一言が「イガ先、はみがきカレンダー忘れました」だと!?いきなりのビジネスライクな挨拶に拍子抜け。

そのままいきおいで、始業式。学年での生活目標をしらしめる演劇をした。オイラは「きーんコーンカーンコーン」オイラがこのセリフを言うだけで、体育館中の子ども達が爆笑する。うむ。もうプロの領域。キャラが根付いてきてしまったのか、道をあやまってしまったのか。

教室に帰ってきて、ラインナップとハブユーエバーで夏休みにあったことをお互い知るきっかけに。「宿題終わって順にラインナップ!」ってやったら、8月31日の何時に終わったでさっそくもめていた。みんな、結構がんばっていたんだな。なにが一番たいへんだった?ってきくと、「自学ノート!!!」でした。それもそのはず、学年の宿題にプラスしてみっちりやってきてた。みんなの前でノートをぱらぱらくくり、簡単に紹介すると、みんな満足げ。通知表のコメントには、「自学ノートが楽しいようで、毎日意欲的に取り組んでいます」「自学ノートのわくわくページでは興味の幅を広げ楽しみながら取り組むことができました」って嬉しい様子が伝わってきた。もちろん、家庭の事情でなかなか取り組めない子もいるけれど、それでも、教室の雰囲気が一段たくましくなった雰囲気だった。それでも、やはり「イガ先、ノートわすれちゃった」って、言わせてしまうのは、なんだか苦しくなる。

 

放課後は、応援団の計画づくりを各団の担当の先生たちと計画を作った。ゴールは?、育てたい子ども達は?運動会が終わったときにどんな姿になっててほしいか。じっくり、計画までねりねりできた。さて、忙しくなるけれども、「自分たちでやったと思えるように、考えたり決めたり挑戦しよう!」を忘れずに、こなすだけの行事にさようなら。

 

さて、まだ賑やかな職員室でわいのわいのと馬鹿話をしながら、漢字のドリル平均グラフ表、辞書引き様プリント、イガモン(パズル問題)を作っておわりにする。今学期は、やりたいことがいくつもでてくる。けれど、続けられないことには手をださないようにしたい。まずは、数学者の時間に算数探究活動からはじめよう。

 

子ども達に会うのが待ち遠しかった。その反面、なにか、一気に忙しくなった。でも、心地いい疲れだなぁ。


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始業式までの移動中に大きないもむしー!と大騒ぎ。さわるとなかなか堅かった。躊躇無くさわる姿はうらやましい。

できていないことを指摘し合うグループ学習に必要なもの

 

この数日とてもおもしろい体験をした。ふたつの研修に参加したんだけど、どちらも「まちがえを指摘する研修」だった。でも、「おもしろい」と思ったのは、その効果が歴然と異なるからだったんだよね。

一つは学級経営の研修で、もう一つはサーフィンのスクールのこと。8月の上旬に学級経営の研修があった。オイラは自分のクラスデータをもって行くことになっていた。

グループに分かれると、まずオイラのクラスの「できていないところ」を指摘するよう指示された。内心、「あぁ、こりゃやだな。ただでさえクラスのリアルな実態について報告するのにぃぃ涙」とおもいつつも、「これもサダメ」と、まな板にあがってみた。

しかし、そこででてくる先生方からのご指摘は遠慮するようなやわらかい指摘。まぁ、そうなるよね。それから気分がのってきたのか、やや突飛な指摘。そして、すでにオイラも1学期間ずっと思案してきたような指摘の数々だった。

そのグループはその後、オイラの実感とかけはなれている「まちがえ」について、解決策をねりねりして、ちーん。はい、みごと解決、いいクラスへの具体的行動目標となりましたとさ。なんどか、とても悲しい気持ちになりました。

一方、先日サーフィンスクール。ボードに立つ中間姿勢の練習でのこと。そこでは9人ほどの参加者。日焼けしたイケメンサーファー先生がおもむろに「では、一人ずつ前に出てやってみて。みんな間違えを指摘してください」とのこと。砂浜とバカンス気分が一気に氷り、緊張感がはりつめてしまった。

一人目のビギナーサーファーがおそるおそるみんなの前で中間姿勢の動作をとる。それを指摘し合う。そもそも、正しいポジションへの理解があやふやだと指摘もしどろもどろになる。だから、オイラはおとなしくしている。すると、「あぁ、これもまたこないだのよくすると言う名のさらしの刑だ」と思っていた。

けど、今回はちがってんだよね。毎回毎回、ていねいに「できていないところ」をせっせと指摘してくれる。しかも白い歯をキラキラさせながらまぶしい笑顔で。好きになっちゃうよ笑。いつの間にか、お互いの弱点を指摘し合う雰囲気になっていたし、その間違えのポイントも分かるようになってきていた。

学級経営研修とサーフィンスクールの「まちがえさがし」は何がちがっていたのだろう?

専門的にちゃんと指導してくれる人がいること。場にまかせすぎないこと。

オイラもよくやりがちだけど、「話し合えばなんか生まれてくんじゃん!?」的な場の作り方では、やはりたまたま専門性を持っている人がいれば、あたりの学びの場となるだけのこと。そうでなければ、ただのさらし首。その差が如術にでていたのが、この2つの研修の違い。

いわゆる個々へのカンファランスが大切ってことですな。

ほっておかないこと。ちゃんとできるように個別に教えてあげること。

場を丸投げしちゃいけない。そして、教えることへの専門性を持たないと、カンファランスはできないんだよね。きっと、学び合う場を作れてはいるけれど、個別のカンファランスが機能しないのは、教えることやできるようになってほしいことが教え手の中で、ずいぶんと曖昧なためなんだろう。

どきっ!

はい。ちゃんと教材についても研究します。はい。反省。というお話でした。

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このアホづらから、サーファーへと成長していくのです(予感)
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